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総裁 出村龍日

 

総裁 出村龍日

総裁出村龍日(りゅうにち)は、昭和二十四年(一九四九)七月二十一日、教祖出村龍聖(りゅうせい)俊子(としこ)の兄弟姉妹三人の長男として桧山郡江差町に誕生されます。
七月二十一日は、教祖龍聖が幼少時に清掃奉仕を日課としていた賢光稲荷社の例祭の日であります。また、母俊子は、奇しくも出村家に嫁ぐ直前に、実家の寝室に於いて障子に映る狐(稲荷)の姿を見るという体験をしており、父教祖龍聖と母俊子の縁もまことに霊妙であります。
総裁龍日は、昭和四十三年(一九六八)三月、函館ラ・サール高校を卒業後、同四月、三重県伊勢市の皇學館大学文学部国史学科に入学し、同時に神職過程を併修されます。
そして、三年時より吉田神道研究の為、久保田収博士に師事し、同大学大学院文学研究科国史学専攻修士課程、博士課程と進み、「唯一神道名法要集の成立期」、「吉田神道の成立」、「六根清浄大祓の成立について」など吉田神道に関する論文を多数発表されました。
平成五年(一九九三)には、同大学大学院博士後期課程に再入学し、平成七年(一九九五)七月七日に博士学位論文「吉田神道の基礎的研究」を提出。翌年三月に皇學館大学第一号となる博士号(文学)を取得されます。
一方、一年時より入部した剣道部では、鷹尾敏文範士九段、船越正道範士七段に師事し、昭和五十年(一九七五)に剣道五段を取得、文武両道の学生生活を過ごされました。その後、昭和五十五年(一九八〇)五月に錬士号、昭和六十一年(一九八六)五月に六段、昭和六十二年(一九八七)五月に教士号、平成三年(一九九一)八月に七段を取得し、全日本剣道演武大会(京都大会)や伊勢神宮奉納全国剣道演武大会に出場するなど、現在も剣の道に精進されておられます。
昭和五十二年(一九七七)に同大学大学院文学研究科国史学専攻博士課程修了をし、翌年より米国に留学するも、教祖龍聖の身体の事情により急遽帰国。そして、教祖龍聖と共に信者救済の行を開始されました。
昭和五十四年(一九七九)に伊月美子(よしこ)と結婚、翌年の七月十日に長男龍眼(りゅうげん)(現:副総裁・法灯継嗣者)が誕生します。しかし、教祖龍聖が両眼を失明した為、その翌日より教祖龍聖の名代として本部、各支部の布教にまわられました。その後、昭和五十九年(一九八四)に二男龍光(りゅうてる)、平成元年(一九八九)、三男龍総(りゅうさと)が誕生します。
平成元年(一九八九)十二月三十一日に教祖龍聖が帰幽され、翌平成二年に第二代総裁を就任、その後現在に至るまで教祖龍聖と同様に信者救済の奇跡を数多く残されます。
そして、平成四年(一九九二)八月には、檜山郡江差町茂尻町より現在の南が丘の地へ本宮を遷座されますが、この本宮建立は教祖龍聖のかねてからの念願でありました。
更に、平成五年(一九九八)に函館分宮、平成十五年(二〇〇三)に札幌分宮、平成十九年(二〇〇七)に小樽分宮、室蘭分宮、平成二十五年(二〇一三)に苫小牧分宮を夫々建立し、美国の馬頭観世音を豊浜に遷すなど、教祖龍聖が残された御教えを世の中に広く教示すべく、今日までひき続き救済の行を続けられております。